則天去私の文学論 『日本篇:俳諧狂句』

長谷部さかな 著

 ID


全153件 <更新> ページ移動 ⇒ [ ↓ 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 終了]

PAGE 1 (1〜10)


雪ふるよ
   2019/10/21 (月) 08:24 by Sakana No.20191021082446

10月21日

雪ふるよ障子の穴を見てあれば 子規(温度覚+視覚・形+運動

  障子の穴から外を眺め、雪ふるよ、と喜ん
でいる視覚・運動の句である。障子を開けて
視界を広げたらどうかなどと横から言うのば
余計なお世話というものだ。
 障子の穴に焦点を合わせて外を見ると、眼
球の角膜と水晶体がカメラのレンズのように
光を感じてとらえ、網膜に焦点を合わせるこ
とで、雪がふっているのが見える。水晶体の
周りには小さな筋肉がついていて、水晶体の
厚みを変えることで焦点調節を行う。
 病牀六尺の人にとっては障子の穴から雪が
降るのを見ることは大事件だ。障子と生死は
どちらも「ショウジ」と発音する。障子は生
死に通じるのだ。死にかけている病牀六尺の
人にとって障子の穴は生死の境目である。 
          (2019.08.05記再掲)


春雨や家鴨よちよち門あるき(触覚+嗅覚+視覚・運動)  
   2019/10/7 (月) 07:18 by Sakana No.20191007071804

10月07日

春雨や家鴨よちよち門あるき  一茶

  アヒルがよちよち門あるきをしているーー
これも視覚・運動の句だ。アヒルでなくても
幼児もよちよち歩く。あんよは上手、とはげ
まし、ここまでおいで、というと、あっけな
く転んで泣き出す。転ぶはお下手(へた)ーー
それもご愛敬で、微笑を誘う。
 時は流れて、幼児が老人になると、またよ
ちよち門あるきをはじめるが、こんどは誰も
あんよは上手、とはげましてはくれない。よ
くやったと自分で自分をはげますしかない。
 ふりかえってみると、長い間、直立二足歩
行でしっかり歩いてきたような気がするが、
はたから見れば、よちよち歩きのようなもの
だったかもしれない。よちよち歩きがおまえ
の本来の姿であることを知れ。
         (2019.07.22記再掲)



紅梅の落花燃らむ馬の糞 蕪村(嗅覚+視覚・色)
   2019/9/30 (月) 07:54 by Sakana No.20190930075447

9月30日

紅梅の落花燃らむ馬の糞 蕪村(嗅覚+視覚・色)
 
 紅梅の花が赤く散って、燃えているように
見える。それだけなら視覚ー耀きの句だが、
郷愁の詩人はそれを馬の糞と取り合わせた。
 馬の糞には視覚の耀きはない。その代わり、
異臭が漂ってくる。嗅覚は視覚の耀きをひき
たてるか、それとも減殺するか。
 やはり減殺されると私は思うが、作者は馬
の糞に郷愁を感じたのだろう。むしろ相乗
効果で、なまなましい実体感が表現されてい
ると思ったのかもしれない。
 「燃らむ」は「燃ゆらむ」で、「燃えてい
るのだろうか」というような意味だと思うが、
視力が減退したせいか、「然らむ」と誤読し
てしまった。「紅梅の落花然らむ」だとすれ
ば、紅梅が馬の糞と混じり合ってしまう。
          (2018.11.19記再掲)



時鳥平安城を筋違に 蕪村(聴覚+視覚・運動)
   2019/9/23 (月) 07:39 by Sakana No.20190923073912

9月23日

時鳥平安城を筋違に 蕪村(聴覚+視覚・運動)

 平安城という城はどこにあるか。鹿児島の
平山城の異名という説もあるが、蕪村がわざ
わざ鹿児島まで歩いていったとは伝えられて
いない。
 やはり平安京の異名だろうと思う。平安京
は唐の都長安を模し、南北38町(5.31km)、
東西32町(4.57km)に及ぶ。北部中央に大内
裏(だいだいり)をおき,朱雀(すざく)大路を
中心に左京・右京に分かれ各京は9条4坊に
分けられた。
 碁盤の目のような区割りだ。そこをすじか
いにホトトギス飛んでいくという視覚・運動
の句である。鳴くよ(794)ウグイス平安京の年
に桓武天皇が遷都し、平安京を都と定めたが、
この句ですじかいに飛んだのはホトトギス。
         (2019年7月08日記再掲)


子規鳴くや雲雀の十文字 去来(聴覚+視覚・運動)
   2019/9/16 (月) 06:39 by Sakana No.20190916063914

9月16日

子規鳴くや雲雀の十文字 去来(聴覚+視覚・運動)

  子規(ホトトギス)は夏の季語、雲雀(ヒバ
リ)は春の季語。いわゆる季重なりで、晩春か
ら初夏の頃の句である。
 どちらも聴覚と視覚・運動に訴える句だが、
雲雀が下から上へまっすぐ飛ぶのにたいして、
子規は横一文字に飛ぶので、どこかで十文字の
ごとくになってすれ違うーーその一瞬の十文字
の静止形に注目すれば、視覚・形の句だという
こともできよう。
 鳴き声は聞こえないが、鳥のことだからいつ
鳴くかもしれない。もしかしたら、十文字のご
とくすれちがったとき、「てっぺんかけたか」
「ぴよぴよ」、あるいは、「ほーほけきょ」、
と鶯の物真似をして、挨拶をかわす声が聞こえ
てくるかもしれない。(2019年07月16日記再掲) 


石山の石より白し秋の風 芭蕉 (嗅覚+視覚・色)
   2019/9/9 (月) 06:51 by Sakana No.20190909065105

9月09日

石山の石より白し秋の風 芭蕉 (嗅覚+視覚・色)

秋の風には色があるという。そんな馬鹿な。
風に色がついているわけがないが、石山の石
より白いといえば、そうかもしれないと思う。
石山は地名であって、石山そのものはそれほ
ど白くないかもしれない。そんな山に比べれ
ば、無色透明の秋の風のほうが白いという理
屈はわかる。
 しかも、この句は芭蕉がおくの細道の旅で
加賀の那谷寺を訪れたときに詠んだという。
近江の石山寺で詠んだものではない。その点
を考慮すると、加賀の那谷寺の秋風は近江の
石山寺の石よりも白いという意味になる。
 とはいえ、俳句は理屈ではない。感覚がと
らえたものを脳で言語変換したもので、感性
と言語のセンスがもとめられると俳人はいう。
          (2019年01月14日記再掲) 
 


鴨のこゑほのかに白し (聴覚+視覚・色)
   2019/9/2 (月) 07:11 by Sakana No.20190902071132

9月02日

鴨のこゑほのかに白し (聴覚+視覚・色)

海くれて鴨のこゑほのかに白し   芭蕉

  海くれて、鴨の姿が白く見えるというので
はなく、鴨のこゑほのかに白し、という。声
に色があるのだろうか。
  元禄時代には歌舞伎役者などの声や口調を
まねる芸が流行り、声色を使うといったらし
いが、芭蕉はその影響を受けたのかもしれな
い。江戸時代後期になると、式亭三馬が滑稽
本『浮世風呂』に 「黄色な声や白つ声で、
湯の中を五色にするだろう」と書いている。
黄色と白つ声の他の三色の声は何の色だろう。
 赤い声、橙の声、青い声、緑の声、藍の声、
紫の声、黒い声などの文例は知らないが、黄
色い声は現代人でも聞くことがある。女性や
子供が「黄色い声を張り上げる」といえば、
甲高い声をあげるという意味だ。
        (2018年8月26日記再掲) 



第十三類 共通感覚
   2019/8/26 (月) 07:44 by Sakana No.20190826074451

8月26日

第十三類  共通感覚

 夏目漱石『文学論』で、文学的内容の基本
成分をなす感覚的要素のうち、触覚、温度覚、
味覚、嗅覚、聴覚、視覚(耀き、運動、形、
色)がとりあげられている。それらを基本成
分とした俳諧狂句にどのような作例があるか
を調べてみたところ、それぞれの基本成分を
ふくむ例句がたしかに存在することが確認さ
れた。

 さらに追加して考慮するべきことは、いわ
ゆる共通感覚ーー五感の根底にあってそれら
に共通するものの感覚、である。「これら簡
単材料を総合したるものもまた大体において
美感を生じうること勿論なり」

 And from the other opening in the wood
  Rushes with loud and whirlwind harmony,
                        (motion,sound)
  (Shelly. Prometheus Unbound. Act IV. ll.226-68)

  そして森の別の口から/
 高らかに渦巻く調べを奏でながら/
  一つの球体が走り出る。
 (シェリー『解き放たれたプロメテウス』第四章二三六―二六八行)  

 共通感覚を詠んだ例句は以下の通り。既に
鑑賞済の句が多いが、あえて重複掲載する。

海くれて鴨のこゑほのかに白し      芭蕉
石山の石より白し秋の風         芭蕉
子規鳴くや雲雀の十文字         去来
時鳥平安城を筋違に           蕪村 
紅梅の落花燃らむ馬の糞         蕪村
春雨や家鴨よちよち門あるき       一茶
傘さして箱根越すなり春の雨       一茶
雪ふるよ障子の穴を見てあれば      子規
蝶々のもの食ふ音の静かさよ       虚子
古寺に斧こだまする寒さかな       ?






阿波踊
   2019/8/19 (月) 08:30 by Sakana No.20190819083043

8月19日

提灯も一緒に踊る阿波踊  近江砂人

  えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨ
イヨイヨイ、踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、
同じ阿呆なら踊らな損々。
  台風十号の影響で令和元年夏に開催が予定
されていた徳島市の阿波踊は中止となったが、
阿波踊はわざわざ徳島まで行かなくても、ど
こでも踊ることができる。
 「踊」は秋の季語とされているが、「行く
春」「春惜しむ」に似て、「行く夏」「夏惜
しむ」の風情がある。芭蕉は「行く春を近江
の人と惜しみける」と詠んだ。なぜ近江の人
なのか、丹波の人ではいけないのかという批
判もあったが、これは何が何でも近江の人で
なければいけない。
 阿波踊近江の人と踊りけり


秋の蝶
   2019/8/12 (月) 07:45 by Sakana No.20190812074502

8月12日

見失ひ又見失ふ秋の蝶  虚子

 秋の蝶を見失ったという視覚・運動の句だ
が、「見失ひ又見失ふ」と反復し、リフレイ
ンのリズムをつくっている。ということは、
見失った後にあらわれているはずだが、あら
われる動きは無視し、「見失ふ」ところだけ
に注目する。
 なぜだろうか。秋の蝶だからである。春の
蝶ならあらわれることに注目するかもしれな
いが、秋の蝶は見失ふことに注目せざるをえ
ない。それが諸行無常というこの世の定めと
いうものである。
 とはいえ、蝶ならぬ人間はせっかく生まれ
てきた一回かぎりの人生の目標は見失っては
いけない。山頭火にならって行乞の旅に出よ
う。見失っても見失っても青い山。


ページ移動 ⇒ [ ↑ 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 終了] <照会>
 
則天去私の文学論 『日本篇:俳諧狂句』 長谷部さかな 著
 Copyright (C) Sakana Hasebe